


美しい満開の桜のもとに新年度が始まり、町も学校も活気に満ちています。にぎやかで楽しそうに見えます。しかし、多くの社会問題、減ることのない自死問題が低学年にまでも及んでいる現実は、人々が、心底楽しいのではない、大きな課題の前に、底知れない不安の中にいることを物語っているのではないでしょうか。
この不安はどこから来るのか、この不安、空しさを満たすものは何であるのか、どうすればよいのか。対話型AIに対してまで解決を求めても、人間は心の底から満足するのだろうか。先が見えない中に、行き詰まりを感じている人が多いのではないでしょうか。何でも答えてくれる機器が開発されても、人間の深奥部に潜む問題、精神的な課題にまでは回答できないのです。人間の言葉では言い表せない底知れぬ不安と動揺に応えてくれる、古くても新しい永遠のベストセラー、聖書のみことばに耳を傾けてみましょう。
“すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”
マタイの福音書 11章 28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「来なさい。」と招いておられるのはどなたなのでしょうか。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人」
人生の重荷、負い難い重荷につぶされそうになっている、他人には理解することができない重荷に疲れ切っている人々が無条件で招かれているのです。そうです、あなたも招かれているのです。招かれる目的は「休ませてあげます。」なのです。休み、安息とはなんと素晴らしいことでしょうか。宮殿のような住まいがあったとしても、心に安息のない生活は悲劇です。心の安息は人間社会にある、どのような宝物によっても得られるものではないことが21世紀の物質文明が教えているのではないでしょうか。
招いておられる方はどなたなのか。誰が招いていらっしゃるのか。招かれているところがどこであるのかは非常に大切な問題です。「わたし」と言われる方はどなたなのでしょうか。そのお方はイエス・キリストです。このイエス・キリストは人類の救い主として旧約聖書にも預言され、神の約束の時に人となり、この世に生まれてくださいました。その教えと御業は神の約束の書である福音書に記されています。このお方は私たちの救いのために十字架の上で死なれ、三日目に復活され、天に昇られたのです。招いておられるお方、イエス・キリストの生涯は否定できない事実なのです。
「来なさい。」私の昔の話ですが、この招きのみことばに賭けていた、あの老人の言葉を忘れることができません。「須藤さん、この約束のみことばに賭けることですよ。」神学的な言葉ではない、上品ではないが極めて実際的な言葉「賭けることですよ。」聖書のみことばを信じた時、本当にその通り平安が与えられたのです。
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